5「和泉先生はいらっしゃいますか」 職員室に入ったものの、目当ての人物が見当たらない。俺は困りきった調子で他の教員に声をかけた。 壁にあるホワイトボードには和泉の名前はあるものの、そこには何も書かれていない。同じ敷地内に皆住んでいるわけだから、活用しなくなるのも理解できなくはないが、用事を申し付けておいて本人が居なくなるようなやり方は好きじゃない。特に、俺が授業後にプリントを集めて持ってくる大まかな予定時刻がわかっているような場合はなおさらな。 前世でなら俺が社長だったから部下には連絡を徹底させていた。だが、今の俺は榊原利晃の甥の、今年十六歳になる子供でしかない。しかも、幾ら榊原グループの創立者が俺自身だとしても、俺の社会的な立ち位置はそうではない。下手すると実家の権力を笠に着るいけすかないガキになりかねない俺は、幾ら不満に思っても和泉に直接不満をぶつけられない。 幸い、和泉の席のすぐ近くに座っていた別の教員が俺の疑問に答えてくれた。 「和泉先生なら準備室だろう」 「ありがとうございます。行ってみます」 俺はプリントを抱えたまま職員室を出た。本当は和泉の机に置いていっても良かったのだが、すぐにでも必要である可能性を考えるとそんなことはできなかった。考えて仕事の出来ない奴は嫌いだ。つまり、社会人の悲しい性である。 和泉が担当教員をしている英語準備室はすぐに見つかった。ぐちゃぐちゃしている外の道より、室内は整然として迷いようがないからいい。ノックをすると、すぐに返答があった。 「失礼します」 開けたドアをすぐに閉じる。案外広い準備室の、窓際の机で和泉は妙にしゃれたパソコンに向かっていた。あれだ、うちの会社の広報が使ってたようなやつだ。俺はパソコンが苦手だからよくわからんが。 「榊原か。それ持ってきてくれ」 「はい」 労いの言葉くらい早く言えるようになれ。何歳だ。脱色した金髪とちゃらちゃらしたピアスもあって二十代前半か半ばには見えるが、礼儀は幾つになっても必要だろうが。 俺は言われるまま机に近づき、マウスを操作している手元から少し離したところにプリントを置いた。やはりすぐ使うものだったのだろう、和泉の手がマウスから離れてプリントを取った。そのままパラパラと何枚か捲る。 「榊原、お前駒場と寝たのか?」 寝てねえよ。ホモかよ。つうかもっと歯に衣着せた物言いはできねえのかよ。そもそも昨日が初対面に決まってんだろ、俺は一昨日ここに来たばっかりなんだからな。 もはや返答することすら放棄した俺は心底呆れきった表情を浮かべた。それをどう捉えたのか、和泉が片方の眉を上げる。 「ふーん……。ん?」 すぐにでも立ち去りたかったが、プリントに視線を落とした和泉が急に枚数を数え直し始めた。ざっと数えてから首を捻る。音もなく椅子をこちらへと回転させて、奴は眉を顰めて俺を呼んだ。 「榊原」 「何ですか?」 まさかとは思うが、誰かの分を回収し忘れていたか? 呼ばれるまま身体を寄せた俺は、次の瞬間和泉に腕を引かれてよろめいた。 「うおっ」 「おやじかよ」 そうだよおやじだよ! 榊原晃人の身体はそこそこ運動神経にも優れているが、それは運動をしている時の話だ。突然体勢を崩されたことに対処しきれず、俺はこちらに半分身体を向けていた和泉の両脚を跨いで奴の膝に乗ってしまった。 ばさばさと音を立ててプリントが散らばる。 「何っ……を、するんですか」 あっぶねえ、何しやがるって言いそうになったわ。 俺は和泉の行動の意味をはかりかね、眉を寄せて奴を見た。当の本人はと言うと、野郎を膝に乗せて何が楽しいのか、ニヤニヤ笑っている。しかも俺が降りようとする前に、俺の腰をがっちり掴んできて身動きができねえ。おい。とっとと降ろせ。 「さあ、何だろうな?」 目を細めた和泉が後ろ手にカーテンを引いた。 嫌な予感しかしねえ。 |
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