5


 風紀委員長であるユーリに睨みつけられ、先に動いたのは副委員長だった。俺の胸倉から手を離し、ひょいと肩を竦める。
「はいはい、離したらいいんすよね」
「吉田」
「サーセン」
 ユーリに咎められ、副委員長が渋々そう返事し、そのまま素早く扉の向こうへと引っ込んだ。
 それにしても、サーセンとは何だろう。日本語はある程度身に着けたつもりだが、何しろ家庭教師との一対一の授業においては、いわゆるスラングというものについて学ぶ機会がなかった。こうして耳にする度に辞書を引いてみているのだが、スラングは俺の持っている辞書には載っていないことが多い。どんな辞書を買い足すのが適切だろうか。
 内心でそんなことを考えつつ、ふと視線を感じて顔を上げる。ユーリが眉を寄せて俺をじっと睨んでいた。
「お前は何か言うことはないのか」
「……」
 問われて首を傾げそうになり、それを堪える。先ほどのサーセンという単語を理解していないとは思われたくなかった。いや、理解していないのは事実なんだがな。
「謝罪か言い訳はないのかと聞いている」
「……先に俺に触れたのは吉田だ」
 なるほど、先ほどのサーセンとは謝罪もしくは言い訳なのだろう。だが、その二つにまで絞り込めたとはいえ、どちらかわからない言葉を使えない。俺は潔く言い訳をした。
 文化の違いは致し方ないとはいえ、上半身に触れられたのだ。俺が帯剣していたら刃を抜き放っていてもおかしくはないんだからな、俺の文化ではな。
「反省の色が見受けられないな」
 ユーリが不機嫌そうに目を眇める。そんな態度を向けられて、こっちだって気分が悪い。文化の違いに基づく誤解はあれど、こいつにはとにかく目の敵にされているとしか思えなかった。
「そんなことより、これを渡しに来たんだ。受け取れ」
「ふん。……タイムスケジュールが出たのか」
 俺の手から書類を受け取ったユーリがぱらぱらとそれを捲って頷いた。文化祭において、どの部活が何時にどの施設を使うかを決めたタイムスケジュールで、ここ数日はこれを仕上げるために立て込んでいたものだ。
「あ、それ見たら返せよ」
「ああ?」
 ユーリの眉間に皺が寄る。まだ若いのに縦皺がくっきり出ているな。これだけ怒りっぽいんだし、老けるの早そうだなこいつ。
「これはコピーじゃないのか?」
「いや?」
 否定すると、今度は溜め息をつかれた。その意味はわかる。わかるんだが、仕方ないんだよ。俺はパソコンとかプリンタとかが苦手なんだ。機械なんてもの、この世界に来るまで触れたこともなかったんだぞ。若者は皆持っているという携帯電話ですら苦手なあまり部屋で埃を被っているくらいだ。老人にも扱えるらくらく何とかという奴だったが、あれを扱える老人などいるのか疑問だ。
「コピーくらい自分で取れ」
「それは俺の台詞だ」
 実のところコピーを取ろうとして十回以上失敗したから、副会長が印刷してくれたこの書類をそのまま持って来たのだが、失敗を知られたくなくて適当に言ったところすかさず指摘された。
 まあ、その、なんだ。こればかりはユーリの言う通りなんだがな。出来ないもんは出来ないんだよ。何で書類をコピーしようとしてるのに俺の手がひたすらコピーされるんだ。どうにか上手くいったと思ったら半分で切れるし。
「……常々思っていたが、お前は機械音痴なのか? この間もコピーしたプリントが切れていたな」
「きかいおんち……」
 聞いたことのない言葉だ。機械はわかる。あの訳のわからない構造をした、パソコンだのプリンタだのの総称だ。音痴は、歌を歌う際に音程が外れること……それと機械にどんな繋がりがあるのか。
 僅かに視線を下げて考え込んでいると、ふとユーリがこちらへと一歩近づいてきた。
「あー……まあ、気にするな。そのうち上達する」
「ん?」
 歌のことか? 俺は歌は得意だが。そう思って顔を上げようとしたところで、ユーリの手がぽんと俺の頭に置かれた。
 ……は?
「これはコピーを取ったら後で返す。生徒会室に届けておくから、お前は帰っていい」
 じゃあな、と言い置いて、ユーリはさっさと風紀委員会の部屋へと入っていった。俺の目の前でぴしゃっと扉が閉まる。
「は……」
 俺は、呆然としていた。
 頭に手を載せる意味はたったひとつ。あなたを愛していますという、愛の告白だった。


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