9


 無視されたらどうしよう。そんな俺の懸念は裏切られて、再び呼び鈴を鳴らしてみたら隼人さんがもう一度出てきてくれた。不愉快にさせたばかりなのにやっぱり優しくて、やっぱり泣ける。
「おにーさん……」
 不機嫌そうに何か言いかけた隼人さんは、だけど涙を両目いっぱいに溜めた俺を見てため息を吐いた。
「はあ……。いいよ、上がれよ」
「お邪魔します……」
 俯きがちに上がって、いつものソファに座る。隼人さんが冷蔵庫に向かうのを目で追いながら、ポケットから出したリモコンを操作した。
 カチ。カチカチカチ。
 これでいい。きっとできる。ひとつ深呼吸をする。
「ほら、これ飲んで落ち着け」
「……ありがとう」
 隼人さんはベッドに腰掛け、ちょっと呆れたような顔で俺を見ていた。きっと酔っ払いの扱いは面倒だなとか、そんなことを考えているんだろう。隼人さんはめんどくさがりだから。
 手渡された麦茶のグラスは冷たくて、少しだけ俺の頭を冷やしてくれた。腹の中で煮えたぎっていた激情が収まると、今度はその中心で静かに燃える芯のようなものだけが残る。
 俺は静かに隼人さんを見た。隼人さんも、相変わらず俺を見ている。
 俺は冷静だった。これ以上ないくらいに。
「おにーさん。今夜、泊まっていい」
 着替えの詰まったバッグを見せて言うと苦笑される。さっきまで飲んでいたんだろう、テーブルの上のビールを取ってぐいと飲んだ。空になった缶を置く手つきをぼんやり眺める。
「最初から泊まるつもりだろ」
「うん。ほら、着替え持ってきた」
 俺の顔は赤いし、目は潤んでるし、舌もちょっと回ってない。アルコールのせいじゃないとは言い切れないけど、実際はそれだけじゃない。俺は今までの人生で一番みっともない真似をしようとしているから、それが恥ずかしくて怖くて赤くなって震えている。
 鞄から着替えのシャツやスウェットをひとつひとつ取り出して見せる俺は、うまく酔っ払いに見せられているだろうか。柔らかな布地の中に、ひとつだけ混ぜておいた硬い感触。それを握り締めて、俺は笑顔で立ち上がった。
「おにーさん」
 隼人さんにリモコンを使おうかと思った。恋人なんて都合のいいコマンドがあるんだから、それで恋人同士になればいいって考えた。この一週間、俺は何度も何度も誘惑に駆られてきた。
 だけどそんなこと、隼人さんの意志をねじ曲げるようなことが俺にできるはずもない。例え彼が俺を拒絶するとしても。
 俺は泣き笑いみたいな表情を浮かべて、ベッドに座って俺を見上げる隼人さんをゆっくり押し倒した。心配そうな表情が、驚きに変わっていく。この顔が嫌悪に歪む瞬間は、できれば見たくないと思った。
 でも、俺はもう引き返せない。あの優しい恋人のキスを二度として貰えないくらいなら切り捨てて欲しい。
「隼人さん」
 前回呼んだのがノーカウントなら、今度こそ初めて隼人さんの名前を呼んだ。
「嫌だったら、俺のこと殴り飛ばして」
 ひびき、という形に声もなく動いた唇に、今度は俺からキスをした。


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