虹を叩き折る


 夢と現実の区別がつかなくなることほど恐ろしいことを、俺は知らない。
 重たく垂れ込める眠りの幕を掻き分け、俺はゆっくりと目を開く。いつもと同じ、教室の風景。窓から射し込む日差しが明るくて、一瞬自分がどこに居たのかわからなくなった。
「直哉、寝てた?」
「おいっやめろよ」
 くすくす笑いながらペンの頭で腕をつつかれて、うっかり肘が机から滑り落ちそうになった。慌てて姿勢を整えて横に座る潤一郎を睨みつける。声をひそめて文句を言う俺に、奴は心底楽しげに笑った。
「寝てる方が悪い」
「お前だって寝るだろ、こんなに天気いいんだぞ」
 さっき体勢を崩しかけたせいで、心臓がまだ早鐘を打っている。それを悟られるのが恥ずかしくてぶっきらぼうに呟くと、潤一郎は相変わらず微笑んだままじっと俺を見て言った。
「寝ないよ」
「あ?」
「寝るわけないじゃないか、直哉でもあるまいし。ノート全然とれてないだろ」
 咄嗟に言い返したくなるけど、ここで文句を言ってノートを貸して貰えないと困る。俺はあまり真面目なたちではないのだ。 「もっと早く起こしてくれよ……」
 残り五分もないことを確認して肩を落とす。潤一郎が「だって俺は真面目に授業受けてたし」と、また面白がるように笑った。こいつは俺と比べたらものすごく真面目なのに、こういう時は薄情だ。
 ジリリリリ、と授業の終了を告げるベルが鳴って、俺と潤一郎は連れ立って席を立った。ノートは昼食を取りながら写させて貰えばいいだろう。並んで歩くと、俺とほぼ身長の変わらない潤一郎とは目線がぴったり同じになる。
「まったくお前はさあ……うぐっ、」
 急に腹の奥に圧迫感にも似た痛みを感じて、俺は小さく呻き声をこぼした。経験したことがないはずなのに、何故か覚えのある感覚。ぞわりと腰のあたりに震えが走って、思わず眉を寄せて足を止める。数歩先を歩いていた潤一郎が心配そうな顔で覗きこんでくる。
「どうした? 具合悪いのか」
「いや……」
 突然の痛みは急にふっと消えた。何だったんだろう。首を傾げていると、奴も不思議そうな顔をした。
「大丈夫か? もし辛いんだったら、代返しといてやるから帰れよ」
「んー、多分平気。もう痛くない」
 強がりではなく、本当にもう何も感じない。笑ってみせたことに安心したのか、潤一郎の表情もすぐに和らいだ。
 最近、こんな妙な感覚が多くて困る。痛みや異物感を感じるのは腹だけではなくて、時々手首が誰かに掴まれたように痛む時もあるし、単純に呼吸が苦しい時もある。頭がガンガン痛むことがあるのは、偏頭痛なのか錯覚なのかよくわからない。共通しているのは原因が全くわからないことで、だけど不思議なことにしばらくすると跡形もなく消えてしまう。
「疲れてんのかなあ……」
 ぽつりと零すと、潤一郎がじっと俺を見て眉を寄せた。奴の視線は特徴的だ。ひどく透明で、俺の内面に水のように染み込んでくる。何故だか居心地が悪い。
「直哉」
「行こうぜ」
 何か言いかけたのを遮って歩き出すと、潤一郎が俺の視界の端で頷いた。
「好きだよ」
 ごく自然に、例えば降り出した雨に気付いて「あ、雨」とでも言うような調子で潤一郎が言ったけど、俺はそれを聞かなかったことにする。いつものように。
 奴が俺に惚れたのは多分初対面の時からだ。透明な水面のような視線は、その癖底知れない深さを持っていて俺を時折圧倒する。……
 
 
 ふっ、と夢から覚醒したような感覚。全身が汗ばんでいて、節々が鈍く痛む。風邪をひいた時の感じに近くて、俺はぼんやりと霞む目を開いて天井を見上げた。どこか、違和感がある。
 遠くで水音がする。誰か家族がシャワーでも使っているのだろうか。こんな、夜中に。
 やけに重たい手を上げて、額に滲んだ汗を拭う。上手く拭えなくて汗が少し目に入った。じわりと痛む。
 いつの間にか水音は止まっている。
 ああ、帰ってくるな。そう思ってから、俺は自分自身の思考に首を傾げた。誰が戻ってくるというのだろう。俺は一人暮らしをしているのに。
 また、ひどい違和感を覚える。この部屋に居るのは俺だけのはず。
 だったら、あの水音は誰が立てていたんだ?
 
 
「直哉、あの、少しいいかな」
「ん? どした?」
 呼ばれて俺は振り返った。はっと夢から醒めたような感覚。どうやら俺はぼんやりしていたようだ。
 取り繕うように笑みを浮かべた先で、潤一郎が少し硬い微笑みを顔に貼り付けている。西日が射して、奴の横顔を照らしていた。
「どうかしたか?」
 何かあったのだろうか。今度は純粋な心配から首を傾げると、奴は少しだけ俯いた。
「ちょっと、話したいことがあって」
「いいよ。どこか行く?」
 何か相談事だろうか。承諾してやると、潤一郎はあからさまにほっと息を吐いた。よほど思い詰めるようなことがあったらしい。
「歩きながら話そう」
「ん」
 潤一郎と並んで大学の構内から出る。散々通っているはずが妙に道を覚えていなくて、俺は奴が歩くのに着いていく。
 桜の並木は今はすっかり赤く染まり、落ち葉を踏むたびにさくさくと音を立てる。
「……あのさ、直哉」
「うん」
「俺、お前のことが好きなんだ」
「……うん」
 聞かなかった振りは、させて貰えなかった。内心で苛立ちが込み上げる。何でだ。何ではっきり言ったんだ。
 潤一郎だってわかっているはずだった。俺がこいつの気持ちに応えるつもりがないことなんて、とっくに。そうでなきゃ毎回聞こえなかった振りで流したりしない。俺はいつもの、友人同士の関係でいいのに。
「直哉……」
「それで?」
 苛立ちは声に滲んだ。咄嗟にしまったと思ったけど、一旦感情を出してしまうともう抑えられなかった。
 俺は立ち止まった。
「直哉?」
 不安そうな顔で、潤一郎もまた立ち止まる。大学の裏の、ちょっと人気のない通りには、俺と潤一郎しか居ない。
「お前は俺にどうして欲しいんだよ」
 わかってるだろ、俺はお前のこと友達以上に見られないんだから。
 言外にほのめかした言葉は、潤一郎にはっきり伝わったようだ。青ざめた顔で、それでも奴は必死に言い募る。
「お、お前が俺に特別な感情がないのは、わかってる。でも、せめて、」
「でも、じゃない。俺には無理だ」
 せめて考えて欲しい。そう言いたいのはわかる。だけど、無理なものは無理だ。感情をそうやすやすと動かせるものなら、この世に叶わない恋なんてない。
「お前のことはいい友達だと思ってる。……諦めてくれないか」
 この言葉が、奴の恋心を砕ければいい。俺はそれだけ言って、潤一郎を置いて歩き出した。
 背後から潤一郎の啜り泣きが聞こえてきて、それに胸が痛んだ。
「あ……」
 次の瞬間、その痛みは熱と衝撃を伴って俺を襲った。
 ごぼ、と唇から血が零れる。想像すらしたことのない強烈な痛み。呼吸しようとした瞬間に血が逆流して、俺はその場に膝をついて崩れ落ちた。背中と胸が痛くてたまらなくて、ゆっくりと横向きに倒れる。ぐしゃぐしゃと身体の下で落ち葉が潰れる感触。
「ごめん、ごめんなさい、ごめん、直哉、直哉ぁ……」
 ぼろぼろと泣きながら、潤一郎が俺の唇を指先で拭った。ぬめる血は手で拭ったくらいじゃ止まらなくて、後から溢れてくる。息ができなくて苦しい。
 きん、と耳鳴りがして、ああ血液が失われているんだなと思った。全身が寒くなって、指先からじんわり痺れていく。
「俺も一緒にいくから……」
 泣きながら囁いた潤一郎の声が聞いたことがないくらい優しくて、俺は途方に暮れた。
 
 
「っはあっ、はっ、あっ、ああっ!」
 死の感覚は何度体験しても異様で強烈だ。全身が痙攣して、呼吸ができなくて苦しさのあまり開きっぱなしの唇から唾液が零れる。涙腺が壊れたように涙をどっと溢れさせて、俺はガクガクと手足を震わせる。
「かは、は、っあ、は……」
「直哉。大丈夫だ、直哉……」
 誰かが俺を呼んでいる。潤一郎。俺は涙を流しながら何度も瞬きを繰り返した。見慣れない、いや、今はもう見慣れた、潤一郎の部屋。
 夢だ。未来を観ると、後からこうして何度もその未来を夢で体験してしまう。俺は少しずつ冷静さを取り戻して、肩で息をしながら潤一郎を見上げた。
 まだ、俺はこいつに殺されてない。あれはあり得た未来のひとつであって、俺は生きている。まだ、生きている。
「直哉……」
 額の汗をそっと拭われる。ぶるぶる震える俺は、潤一郎の体温にすら縋ってしまう。少し濡れた髪、シャンプーの匂い。暖かい。
 そうだ、さっきまでこいつは俺を犯していて、あの水音はこいつがシャワーを使っていたからで、俺は多分うたた寝している間にまた観てしまったんだろう。
「大丈夫だ、大丈夫……」
 ぐっと潤一郎を引き寄せて胸に頬を押し当てる。俺のものよりずっと遅い心臓の鼓動が聞こえて、俺はゆるゆると全身の力を抜く。死の疑似体験は圧倒的な恐怖でもって俺を蹂躙してしまう。
「直哉、直哉、愛してるよ、直哉」
 何度も俺を呼ぶこいつですら、死よりは恐ろしくないと、思わされてしまう。
 三度、あり得た未来で殺された。今だっていつ殺されるかわからない。こわい。こわくてたまらない。
 それでも、恐怖に冷えきった身体に触れる手が暖かくて、そっと唇が重なってくるのを拒めないまま、俺は目を閉じた。


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