36「サーシャさま、お加減はいかが?」 皓月宮の部屋へ足を踏み入れたホウテイシュウの後ろから、ひょいと顔を出して笑顔を浮かべる。途端にサーシャさまがびっくりしたように目を丸くしたので、グエンはくすくすと笑い出してしまった。予想通りの反応だ。 「ふふ、サーシャさまったら、そんなに驚いてしまったの?」 「そのようですね」 大きく見開いた目をぱちぱちと瞬かせ、サーシャさまが小首を傾げてホウテイシュウを見た。その視線を受けてホウテイシュウが笑いながら説明する。 「これまではグエン姫もサーシャさまも安全のためそれぞれの宮からあまり出歩かないようにとのことでしたが、そろそろ問題ないだろうということになりまして。衛士の同伴は必須ですが、これからはご自由にしていただけますよ」 ホウテイシュウの話を聞いて、サーシャさまが少し嬉しそうな顔になった。 皓月宮にはもともと女官も用人もほとんど詰めていないと聞いている。ほとんどをライソウハがこなすとは言っても限界があるだろうし、不便ではないのか不思議だが、それよりも静かなこの宮で過ごすのは寂しかったのではないかとグエンは想像している。さっとサーシャさまの許へ駆け寄って、グエンは彼の手をぎゅっと握った。 「これからは妾が時々訪問させていただきますわ。サーシャさまも良かったら綺霞宮へいらっしゃいましね」 こくんと頷いた動作で、少し長くなったサーシャさまの黒髪が揺れた。初めて会った時は出家でもしているのかと思ったほど短かった彼の髪は、今では肩を僅かに越している。護身術を学ぶ時には一般的な男性がするように上半分の髪を結わえているのだが、標準的な長さには足りない彼がすると妙に可愛らしい。 「御髪はこのまま長く伸ばすおつもりなのですよね?」 「サーシャさま、よろしければ」 また頷いたサーシャさまへ、ライソウハがそっと卓を指し示した。もともと書き取りの練習をしていたらしく、卓の上には拙い文字が並んでいる。 「勉強熱心ですね」 それを眺めていたホウテイシュウが顔を上げて微笑む。恥ずかしそうに書きかけの紙をひっくり返したサーシャさまは、椅子を引いてグエンに座るよう促すと、矯めつ眇めつしながら文字を幾つか綴った。 「長さ、コウライギ、同じ……陛下と同じくらいの長さにしたいということですか?」 まだ文章をつくるのは得意ではないようだ。肯定されて、グエンはことりと首を傾げた。 「でも、陛下の御髪はあれで短い方ですよ。一般的には、そうですね……このあたりが適切ですが」 ホウテイシュウが胸の下あたりを手で示してみせる。それにサーシャさまが困ったように眉を下げて微笑んだ。また筆を手に取り、ゆっくりと文字を書く。天上では、短い、……読めない。 「ええと、サーシャさま、この言葉は天上のものですか?」 読めない文字を指差すと、彼は難しい顔になって少し考えてから、長い、と書いて、それを見せてから筆で塗り潰した。 「天上の方々は髪を短くするのが普通なのですね?」 「あら、そういうことだったの。……そうね、こちらでも出家したら髪を短くするものね。だからきっと天帝にお仕えする天上の方々は御髪を短くするのだわ……」 察しよくホウテイシュウが言って、それでグエンは納得して頷いた。それから、サーシャさまから筆を受け取って、さらさらとその文章を紙に記した。 「天上では髪が短いのが普通です。はい、サーシャさま。これが短いという字、これが普通という字……」 筆を置き、指で示しながら説明すると、サーシャさまの表情が明るくなった。小さく頷いては、文字の下に天上の言葉で何かを記していく。きっと、覚えるためにそうしているのだろう。 「グエン姫はなかなかいい老師(先生)になれそうですね」 「あら、当然でしょう、ホウテイシュウ。だから妾の方がお忙しいコウレキスウさまよりも適任だと言ったのに」 つんと顔を上げれば、ホウテイシュウが苦笑する。それが何だか気に食わなくて、グエンはサーシャさまの方へと身を乗り出した。 「ねえお聞きになって、サーシャさま。陛下とホウテイシュウがサーシャさまの老師を選んでいた時、妾も立候補したのよ。でも、ホウテイシュウがコウレキスウさまに頼んだ方がいつか丞相になる時のための経験になると仰って……でもやはり妾の方が適任だったと、これでよーくお分かりになったでしょう」 言い募ると、よほど不満一杯に見えたのか、サーシャさまが唇を綻ばせて笑い出した。声は出ていないが、楽しそうに笑っているのは見てわかる。思わずといった風にホウテイシュウまでも噴き出したが、サーシャさまが笑っているだけでそれも気にならない。 「ねえライソウハ、あなたもそう思わない? ……ライソウハ?」 側仕えが控えているはずのところを見遣ると、ライソウハがはっとしたような顔をしていた。 「……申し訳ありません、少しぼんやりしてしまっていたようです」 「あなた、大丈夫なの? 顔色があまり良くないようだけど……」 笑って見せたが、ライソウハの体調はあまり優れないように思えた。 側仕えというものは、少々のことでは職務を休むことができない。だからこそ主人がそれを気に掛けてやらないとならないのだ。長年当たり前のようにそうしてきたグエンは気がついたが、まだそれほど慣れていないサーシャさまはきっと気づいていないだろう。そう思って促したが、ライソウハは苦笑しながら首を横に振った。 「少し、昼食を食べ過ぎてしまったようです。まだ胸のところでつっかえている気がします」 それでも、グエンはそれほどライソウハと接したことがない。思い過ごしかと納得し、小さく微笑んだ。 「それなら尚のこと、立っているのはお腹につらいでしょう。あなたもお掛けになって。きっとサーシャさまもそう仰るわ。ね、サーシャさま?」 彼を振り返れば、言いたいことを代弁して貰って安心したのか、笑顔で頷いている。ライソウハが恐縮しながらも席についたのと同じようにホウテイシュウも腰を下ろし、四人はしばらく言葉と筆談を通じて談笑した。 |
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