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 ぱたん、という僅かな音を立ててドアが閉じる。広々とした生徒会室には徹(とおる)以外には誰もおらず、しんとしている。本来なら生徒会長が座るべき席の向こうにある窓には、明るい青空が広がっている。分厚い窓ガラスを通して響いてくる生徒たちの活発な声が遠い。
 ひとりぼっちだ、と徹はぼんやり考えた。
 ここのところ、生徒会の集まりは今までにないくらい悪かった。原因は詳しく知らない。少し前までのように、特に用事もないのに集まってずるずるだらだらしなくなったのは良いことだと思っていたが、それにしても全く顔も出さなくなるのは極端すぎる。
 完全に放り出すのはやりすぎだ。最低限生徒会としてやらなければならないことはこなして欲しい。そう思うなら、彼らに言わなければならない。なのに、徹にはどうしてもそれが出来なくて、だから彼も結局は同類なのだ。誰を責めることもできない。
 備えつけの給湯室でいつものようにお茶を淹れながら、徹は湯の中でゆったりと開く茶葉をぼんやり眺めた。
 佐々木徹には一つだけ苦手なことがある。他人とのコミュニケーションだ。
 自分を主張することが苦手で、意見を述べることが苦痛で、自発的に他人に関わるのが面倒くさい。
 小学生の頃からの付き合いがある生徒会メンバーなら、そんな徹のことも許容してくれたし、少ない言葉でも意図を理解してくれていた。人気投票と言っても過言ではない生徒会への推挙だって彼らがしてくれたし、そこに書記として入れたことだって彼らの力があってこそだ。だから、その彼らがどこかへ行ってしまうと、途端に徹は何もできなくなる。
 ふと気がついて急須を確かめる。いつもの癖で人数分のお茶を淹れてしまっていた。無言で少しだけ悩んでから、徹は生徒会の人数分だけカップを用意した。ひとつひとつのカップに丁寧に注いでいく。
 ふわりと立ち上るお茶の香り。徹のお気に入りの茶葉を、特に副会長はよく褒めていた。
 最後に自分のカップにも注ぎ終えて、急須を置いたところで、不意に後ろから爽やかな風が吹きつけてきた。風にあおられて、染めたこともない徹の黒髪が揺れる。
 風? ここは室内なのに、どういうことだろう。
 不思議に思って生徒会室の方を振り返った徹は、目の前の光景を見てぱちりとひとつ瞬きをした。
 そこには見渡す限りの草原が広がっていた。
「え……」
 徹は心底驚いていた。そこにあるのは生徒会室のはずだった。靴音を吸い込む絨毯に、何代もの生徒会長が使ってきた深い色のデスク、天井近くまである掃き出し窓。それらは全く何の痕跡も残さず消え失せてしまっていて、それどころか、生徒会室は二階にあったはずなのに、徹は大地を踏みしめている。見下ろしたローファーは草を踏みしだいていて、更にその草の下には黒々とした土がある。
 驚きのあまり何の反応もできずにいる徹の耳に、遠くから何かが近づいてくる音がした。何か体積のあるもの、人間よりは大きなものが立てる音だ。
 咄嗟に顔を上げた徹の目に、馬に乗った人々の姿が見えた。ぐんぐん近づいてくる彼らと目線が合う。馬が速度を上げ、ものすごい速さでこちらに向かってくる。慌てて逃げ出そうとして振り返った先に先ほどまで自分がいた給湯室が見えて、泣き出しそうなほどほっとしてそちらへと逃げ戻ろうとした。その時だった。
『――!』
 ドッ、と高いところから飛び下りたような音がしたかと思うと、何か聞き覚えのない言葉と共に、ぱしりと二の腕を掴まれた。
「っあ、」
 目を見開いて振り返る。馬から飛び下りてきた男が、徹の腕を掴んでいた。高校生にしては大柄な方である徹より、更に一回りは大きな男だ。陽光を強く反射する金髪に、緑とも青ともつかない不思議な色合いの瞳。その双眸が、思いがけない強さで徹を見つめている。男からは、微かに血のような匂いがした。
 怖くなって顔を逸らし、給湯室の方へ逃げようとした徹は、身体を反転させたところで再び硬直した。
『――、――』
 金髪の男が徹の腕を掴んだまま何かを言っている。徹には全く理解できない言語だ。だが、仮に理解できていたとしても徹にはその意味は伝わらなかったはずだ。
「……ない……」
 つい数秒前までそこにあったはずの給湯室は消えうせ、青々とした草原だけが、まるで最初からそこにあったとでもいうように風に揺れていた。


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