後編


 不思議なほど、耳に馴染む声がした。
「こんなところに居たのか」
「あ、貴也。悪い、つい」
 やめろ。その名前、貴也と同じ名前を聞くと、咄嗟に反応せずにはいられない。思い出してしまうから、同じ名前の人間にすら近寄らなかった。
「……たか、や……?」
 転入生のすぐ後ろからやってきた男に目を奪われる。
 まさか。いや、間違えようがない。でも、そんな。
 中性的なくらい上品に整った顔立ちと、その印象を大きく左右する肉食獣のような目。獰猛さを奥底に隠して何でもない風を装う、猫科のけもののような目つきを、俺は何度夢に見ただろう。
 スタイルを変えたのか、中学時代は銀色だった髪を今は黒と金のツートンカラーにしている。
 彼は、彼が、伊都聖司が一瞬も忘れたことのない青山貴也そのひとだった。
 嘘だろ。貴也が、いる。俺の前に。貴也が。
「伊都か。どうした」
 いと。その唇から初めて名前を呼ばれて、声が、貴也の。
「……えっ! ええっ! どうしたんだ!」
 貴也の姿があるのに溢れる涙で視界が歪む。それすら勿体なくて、俺は転入生の存在を無視して何度もまばたきを繰り返した。その度に幾らでもこみ上げてくる涙が落ちて俺の頬を濡らす。
 静かに涙をこぼしたまま、俺は一心に貴也を見つめている。
「なっ……ど、どうしたらいい貴也」
「気にすんな」
「だって泣いてんだけど!」
 もっと姿を見たい。声を聞きたい。貴也、貴也が、ここにいる。
「ぁ……」
 手が震える。唇がわなないて、声もうまく出ない。どうしよう。何て言ったらいいんだろう。おかしいと思われないように、また前みたいに、ただの先輩として振る舞えるように、しないと。
「気にすんなって、おい、どういうことだよ」
「こいつ俺のストーカー」
「はあああ?」
 驚く転入生の横をすり抜け、貴也が俺のすぐ目の前に立った。ほんの一年で随分身長が伸びた。顔つきもより一層男らしさを増していて、獣のような美しさが強くなっていた。
「もう待ちくたびれた」
「……え……?」
 眼光鋭く見据えられて呼吸すら覚束ない。貴也が俺を見ていて、俺に話しかけている。待った? 何を? わからないけど、俺が何か貴也を待たせるようなことをしてしまったならすぐにでも何とかしないと。貴也にだけは少しでも迷惑をかけたくない。俺は確かに貴也のストーカーだけど、何よりも貴也の幸せを願っているんだから。
「俺はあんたを追ってここまで来たのに、こんだけ待たせやがって。今度はあんたの番だからな」
「た、かや……?」
 本人に向かっては一度も呼んだことのない名前が唇から滑り出る。それに彼はふっと目を細めてにやりと口元を緩めた。
「ふん。せいぜい努力して俺を落としてみろ。もう前みたいなのは許さねえからな」
「え、え……?」
 驚きすぎて涙が止まった。何を、言ってるんだ、彼は。
「あー……そういうこと」
 俺の涙におろおろしていた転入生が今度は呆れきった調子で溜め息を吐いて、途端に何故か顔が熱くなる。
「え……あ……? あ、青山くんっ?」
「貴也、だろ。あんたバレバレなんだよ……聖司」
 ああそうだ、もう浮気すんじゃねえぞ。そんな言葉を残し、ふん、ともう一度鼻先で笑った貴也が踵を返す。それを俺は呆気に取られて眺めるしかない。
 視界から貴也の姿が消えた途端、俺はへろへろと地面に崩れ落ちた。全身どこも力が入らない。名前を、呼ばれてしまった。貴也に。貴也に。
 あの声だけで何回でも抜ける。
「……ど、どういうこと……」
「こっちが訊きてえよ……」
 頭上から呆れたように落とされる溜め息は、しかし案外優しくて、俺は初めてきちんと転入生を見た。
 ボサボサの頭をしているけど、口元は優しく微笑んでいる。慈愛のようなものを向けられて、俺は思わず素直に問いかけた。
「ねえ、俺どうしたらいいかな……」
「あー、とりあえずセフレ全部切ってから貴也にコクれってことだろ」
「……ありがとう、ええと」
「小金井日和(こがねいひより)」
 ぶっきらぼうに告げられた名前に微笑む。もうからっぽなんかじゃない、ちゃんと感謝の気持ちを込めて、心から。
「ありがとう、ひよちゃん……」
「普通に名前呼べねえのかてめえは!」
 顔を真っ赤にして憤慨する日和に笑い転げた俺の気持ちは晴れ晴れとしていた。
「ひよちゃん貴也の最近の身長体重とスリーサイズとあと知ってる限りの個人情報教えて……」
「自分で訊け!」
 仕方ないなあ。それじゃあまずは保健室でデータ貰ってこよう。話はそれからだ。

End.


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