いけにえ!
前編


 日照りが続いて田んぼが干上がり、不吉なひび割ればかりが目立つようになったのは何年ぶりだろうか。
 明日こそ雨が降る、いや明後日こそ降ってくれるはず。毎晩そう期待して眠りについても翌朝には希望を打ち砕いてくれる夏の空は、真っ青に晴れて雲ひとつない。せめて曇ってくれたっていいだろうに、かんかん照りの太陽のせいで僅かに残された水を撒いてもすぐに乾いてしまう。
 不安は村にどんどん広がっていって、空の抜けるような青さとは対照的に、村人たちの心には暗雲が立ち込めていた。
「陸郎、お前に話がある」
 だから、陸郎が村長に呼び出された時、どんな話をされるのかを彼は何となく察していた。
 陸郎は川沿いの長介のところに生まれた六男で、だから名前にも六にちなんだ文字が入っている。
 山あいのこの村は貧しく、外から女が嫁入りしてしてくることも滅多にない。だからなのか、村にいるのは薹の立った女ばかりで、若い女といえば藪の近くに住む田助のところで去年の末に生まれたばかりのお雪か、あるいは村長のところのまだ四つになったばかりの風花しかいない。彼女たちを山神様への生贄に仕立てたくない気持ちは誰でも同じだ。
 だから、この村で一番華奢で、一番女の子みたいな顔をした陸郎が生贄に選ばれるのも、仕方のないことなのだ。
「……わかっているだろうが……」
 憂鬱そうな顔でそう言い出した村長を始めとする村の衆の前でちょこんと正座して、陸郎はこっくり頷いた。
「わかっております。おれが生贄になるんでしょう」
「……すまん」
 悲しそうな中にもほっと安堵が混ざるのは、陸郎が生贄になれば孫娘の命が助かるからだ。ちょっとつらい気持ちになるが、陸郎にだって風花は可愛い。十二になった陸郎より八も年下の風花は、誰よりも陸郎を気に入っていつでもちょこちょこ着いて来ていた。もう妹のような風花に会えないのは寂しいが、死んでしまえば寂しさもなくなる。
 何より、山神様がこれ以上雨を降らしてくれなければ、陸郎だけではなく風花もみんな死んでしまう。
「陸郎ォ……」
「あーもう泣かないでくださいよー」
 泣き出した父親を宥めながら、陸郎は自分が生贄になることにすっかり納得していた。


 そんなわけで、その夜がとっぷり更けた頃、陸郎は村長が出してきたとっておきの一張羅を着て山奥の蛟石の前に立っていた。綺麗な桜の模様が入った着物はとんでもなく美しくて、陸郎の父親までもが目を剥いたものだ。もともとはいつか風花が婚礼衣装に着られるようにと用意していたらしいが、風花の命を救ってくれる陸郎にどうしても着せると言って渡してくれた。
 お陰で、髪を結い上げられ、唇にも紅をさされた陸郎は、ぱっと見た限りでは美しい少女に見える。曇る鏡を擦って眺めながら、陸郎自身もこれなら山神様に召し上がっていただけるに違いないと感心したものだ。
 ホウホウと遠くで梟が鳴いている。少し離れた草むらでは虫がリンリン騒いでいるが、蛟石の周りは少し空き地のようになっていて、虫さえ近づかない。その蛟石の前にちょこんと正座して、陸郎は山神様の訪れを待った。
 村の古老からずっと話を聞いてきたが、山神様は巨きな白蛇なのだという。その鱗は月の光に艶々と光り輝き、赤い瞳に睨まれたら呼吸が止まってしまうのだとか。そんな山神様は子どもなどひとのみにしてしまうそうで、陸郎は果たしてひとのみにされてからどれくらい生きているものなのかだけ懸念していた。出来ることなら、苦しませず鋭い牙で殺してからのみこんで欲しい。
 そんなことを考えていた陸郎は、ふと周りの音が一切聞こえなくなっていることに気がついた。梟も、虫も、もう鳴いていない。不気味なほどに静まり返った山奥はまるでこの世ではないようで、さすがの陸郎もぶるりと華奢な身体を震わせた。
 その時だ。
 しゅるしゅると草を倒して這い進むような音に気がついて、陸郎は顔を上げる。その視線の先に、巨きな白蛇がいた。
 驚きにひっくり返りそうになるのを堪えたら、ひゅっと喉が音を立てた。
 しゅう、と蛇が舌を出して目を細めた。
「そなたが生贄か」
 二股に分かれた舌のせいか、やたらしゅうしゅう音を立てながら蛇が問い掛けてきたので、陸郎はなるべく少女らしく見えるように気をつけてこっくり頷いた。蛇が満足そうにしゅうしゅう言う。
「そうか、そうか。あの村なぞ枯れ果てたと思っていたが、まだこんなに可愛らしいおなごが残っておったか」
「……あの、山神様」
「なんじゃ」
 問い掛けると、蛇は特に気分を害した様子もなく陸郎の前でとぐろを巻くと、舌なめずりしながら問い返してきた。それに勇気を得て、陸郎はそぅっと言い募った。
「わたしの村は日照りに苦しんでおり、飲む水さえありません。このまま雨が降らないと明日にでも皆が死んでしまいます」
 ふむ、と蛇が唸った。
「わしがそなたを喰らったならば、雨を降らせてやろうに」
 陸郎はそっと身体を乗り出し、蛇の身体に触った。少し暑い夏の夜だというのに、真っ白な鱗はひんやりとしていて心地よかった。
「わたしは、山神様のものでございます。決してそれを違えることはありません。ですから、わたしを喰らう前に、せめて雨が降っているところを見せて安心させていただきたいのです」
「ふぅむ」
 白蛇がしゅるりとその巨体を動かし、陸郎の周りを取り囲んだ。背中から覗き込むようにして、じぃっと陸郎の黒い瞳を見つめる。真っ赤な瞳を見ているうちに何だかくらくらしてきそうになるが、陸郎は気をしっかり持って蛇を見つめ返した。しばらくそうやって見つめ合っていると、とうとう蛇は根負けしたようだった。
「そなたの言うことも一理ある。そなたはわしのもの。逃げ出す気が無いこともよぅわかった。雨ならばすぐに降らせてやろう」
 蛇が言うなり、たちまち強い風が吹いてきた。驚いて辺りを見回した陸郎は、空へ雲が勢い良く流れてきているのを認め、目を見開いてそれを凝視する。陸郎の目の前で、空はあっという間に重たい雲でいっぱいになり、すぐさま雨が降り注いできた。
「雨だぁ……!」
 瞬きの間に全身がずぶ濡れになる。桜の模様の着物はどんどん水を吸ってずっしりと重くなったが、そんなことは気にならなかった。雨だ。恵みの雨だ。今頃田畑は潤い、村人たちは家から飛び出して甕でも瓶でも何でも並べて水を溜めていることだろう。
 全身を雨に打たれながら花が咲いたように笑う陸郎に、白蛇はすっかり見惚れているようだ。笑顔で白蛇の太い首に抱きついて何度も御礼を言う陸郎に照れた白蛇がしゅうしゅうと舌を鳴らした。
「ほぅら、雨を降らせてやっただろう。これでそなたはわしのものじゃ」
「はい、山神様、はい!」
 喜びの涙が雨に混じって温く流れ落ちる。ついて来い、と促され、陸郎は重たい着物を引きずりながら蛇に従って更に深い山奥へと足を踏み出していった。


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