みんなきたない東京の川は汚い。ぼくはくるぶしまで水に浸かり、ちょっと途方に暮れて水面を見下ろした。遠目からはそこそこ澄んでいるように見えた水は、足を少しでも動かそうものならけぶるように濁って視界を遮る。多分このあたりに落ちたはずだけど、この調子で見つかるだろうか。 ぼくは今日、失恋したばかりだ。 同じクラスの、ひとつ前の席に座る同級生。彼に恋をしていたぼくは、それを本人に打ち明ける勇気のないまま毎日彼の背中を眺めて暮らしていた。一緒に昼食を食べたり放課後寄り道したりするほど親しくはないけど、十分間の休憩の時には多少話したりもする。その程度の、ごくありふれた関係。ぼくはそれに満足した振りをして毎日毎日彼のちょっと跳ねた襟足だとか、よれたシャツだとかを見つめるのを楽しみにしていた。 今日、男に興味がないと思っていた彼に、同性の恋人ができたと知るまでは。 はあ、とぼくはため息をついて慎重に屈み込む。あまり深く屈むと尻を濡らしてしまいそうだから、ちょっと妙な中腰の姿勢で水底を探る。 そこそこ自然が綺麗な地方出身のぼくからすると、東京の川はものすごく汚い。指先に触れる石たちですら、異様にぬめぬめして感じる。そんなぬめぬめを掻き分けて、半年前の期末テストの時に彼から貰った消しゴムを探すぼくの、何て滑稽なことだろう。そもそもひとり橋の上でたそがれながら消しゴムを眺めていた時から滑稽だったけれど。でも、ぼくにはもうそれしかないのだ。彼は既に、他のひとのものになってしまったから。 「っわ、あ!」 悲しみの最中、ずるりと革靴が滑る。ぬめる石をひっくり返しているうちに、それを踏んでしまったのだ。体勢を崩し水しぶきをあげて倒れたぼくは、何だか全てどうでもよくなってそのまま仰向けに寝転んだ。 さらさらと水が流れていく。ちょっと汚い水なので気分はよくない。だけど、悲しみが重たくて身体を起こす気にもなれずにいる。 「それ、面白い?」 不意に橋の上から声をかけられて、ぼくはちょっと驚いてそちらを見上げた。ぼくの視界の中で逆さまになっているのは、同じ制服を着たクラスメイトだ。ぼくの失恋相手ではない。教室の反対側の席に座る、普段ほとんど接点のないやつ。ぼくが恋をする前に一度だけ、隣になったことがある程度。 「……こっち来て混ざる?」 やけになって言うと、そいつは笑って首を振った。 「そこ、すんごいぬめぬめしてるからやだ」 「何で知ってんの」 純粋に疑問に思って問いかけると、そいつは変わらない表情でじっと俺を見つめた。 「俺さ、お前の消しゴム盗んだことあるんだ」 なんで。そう思ってから、そういえばぼくが好きだった彼から消しゴムを貰ったのは、自分のをなくしてしまったからだったと思い出した。どこにやってしまったんだろう、その時はあまり疑問に思わなかったけれど、こいつが盗んでいたのか。 言葉は出なかったけど、そいつは俺がその理由を知りたがっているのを察したようだった。少し悲しそうに微笑んで、そいつが静かに白状した。 「それで、そこに放り投げたんだ。お前の何かがどうしても欲しかったけど、諦めてたから」 ああ、こいつもぼくと同じなのか。 東京の川は汚い。そこでぬめぬめに引っかかるやつも、みんなきたない。 即興小説トレーニング お題:東京のぬめぬめ 制限時間:30分 |
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