綾羅錦繍


※第一部で徹が帰ってしまう前のお話です。


 コウライギが皓月宮に足を踏み入れた時、ライソウハは両手に何か黒いものを持ち、それをためつすがめつ眺めているところだった。
「……何をしている?」
 思わず疑問を口に出すと、ライソウハがびくりと小さく飛び上がった。
「へ、陛下! あ、これは、その」
 礼をとることも忘れてしどろもどろになっているライソウハに訊くよりも、自分で見た方が早い。そう判断したコウライギは、さっさと彼のもとへ近づくとひょいと手許を覗き込んだ。
「これは……トールの服か?」
 問い掛けると、ようやくライソウハが落ち着きを取り戻した。手に持った服を置き、丁寧に礼をする。
「はい、これはサーシャさまが降臨なさった際に身に着けていらっしゃった衣でございます。……この黒を洗っても良いものか長らく躊躇っておりましたが、先ほど洗って参ったところです」
「……まだ黒いように思うが」
 感心しながら自分もそれを手に取る。天帝の遣いであるのだから、身に着けているものも天上のもの。特殊であって何らおかしくはない。それにしても、これだけ真っ黒な布をコウライギは初めて見た。
「そうなのです。洗っても全く何の色も落ちず……天上人の身に着ける衣は、我たちのものとは全く異なるのですね」
 言いながら、ライソウハはどんどんその瞳を輝かせていく。コウライギは大人しいだけだと思っていた側仕えの意外な一面に気を取られ、遮る時機を逃してしまった。
「ご覧ください、ここの留め具は鉄のようなもので出来ているようですが、水に濡らしても腐食する様子が見受けられません。また、胸の辺りについている徽章ですが、こちらは見たこともない紋様が色付きで彫刻されております。……サーシャさまは、天上で何らかの地位にあられたのでしょうか。流石は瑞祥でございますね」
「あー、わかった。わかった」
 思わず苦笑すると、我に返ったライソウハが恥ずかしそうに赤面して俯いた。
「も、申し訳ありません……」
「構わん。……それにしてもこの服だが、どうすべきか。トールに身に着けさせるとどうにも目立つだろうな」
 苦笑したコウライギに、側仕えが控えめに頷いた。
「陛下の仰る通りでございます。サーシャさまはあの御髪も瞳も高貴な色をされていらっしゃいます。この上お召し物まで黒となると、幾ら瑞祥とはいえどんな不届き者が血迷うかわかりません。陛下にこのお召し物の処遇をお決めいただけましたら幸いでございます」
「ふむ……」
 考え込むコウライギに断りを入れ、ライソウハが茶の用意をしに席を外した。コウライギも椅子に腰を下ろし、後に残された真っ黒な服を手に取る。
 世界中のどこを探しても、黒という色は瑞祥以外に存在しないというのが通説だ。世の中にあるどんなものも、色を取り出そうとするとごくごく淡くなる。王の身に着ける藍色、あるいは王宮の柱を塗る朱色が色の濃さでは最も強いものであり、それらの色は臣民には許されていない。普通の人間は、どれだけ地位が高くても淡い色合いの服を身に纏うのだ。
「これをどうしたものか……」
 完全な黒色の、天上の衣。この服は、これだけでどんな国宝をも凌ぐ価値がある。宝物殿にしまい込んでも構わないが、これをトールが身に着けているところをまた見たいという気もしなくはない。
 思い悩んでいるコウライギの前に、そっと茶が差し出される。少し暑い気候に合わせた花茶はふくよかで甘く、しかし後味はさっぱりとしてしつこくない。
「……相変わらず茶がうまいな」
 考え事を一旦脇によけて呟くと、すぐ近くに控えたライソウハが面映ゆそうにする。その様子を見ながら、コウライギはひとつの決断を下した。
「これを婚礼衣装に仕立ててはどうだ」
 言ってライソウハを見ると、彼はあまりの発言に絶句していた。
「こ、この黒い布を切ると仰いますか……」
「そうだ」
 頷いたが、すぐさま首を横に振られてしまった。
「……陛下、そのような畏れ多いことを出来る者がどこにおりましょう」
「では、どうする」
「お、おそれながら陛下、婚礼の際には禁色をお召しになっていただくのでは……?」
「わかっている」
 小さく笑みを零す。実のところ、コウライギもそのことには気がついていた。ただ、この大人しげで案外そうでもない側仕えをからかってみたくなっただけである。
 含み笑うコウライギを見てその意図に気づいたライソウハが苦笑する。それに尚更おかしくなったが、ふと手許の服に視線を落としてぼやいた。
「しかし、婚礼はいつになることか……」
「陛下? 何か仰いましたか?」
「いいや。……取り敢えずこれは宝物殿にしまっておけ。直ちにだ。トールはいつもの露台か?」
「さようでございます。では、小人はこちらを宝物殿へお持ちいたします」
 服をおしいただき、いそいそと部屋を出て行くライソウハの姿が扉の向こうに消えてから、コウライギはゆっくりと椅子から立ち上がった。
 意思の疎通が出来ない以上、トールとの婚姻は彼の意思を全く無視して執り行われることとなる。言葉を敢えて教えないと決めたのはコウライギ自身だったが、こんな時だけはそれが悔やまれた。
 せめてトールに多少なりとも好かれればいいが、と気弱なことを考えながら、コウライギは懐に入れた菓子を取り出して露台へ向かうのだった。

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