第一章

――恋が生まれるにはほんの少しの希望があれば十分です。
スタンダール 

 いつもの時間に鳴りだしたアラームを目を閉じたまま止めることから、俺の一日は始まる。
 ゆっくりと目を開いた先、紗のカーテンから射し込む光は柔らかく、まだ青みを帯びている。ふあ、と小さくあくびをしてから目を擦りそうになり、それを堪えて腕で目をおさえた。布団をめくると、少しばかり温度の低い空気が身体を包む。実のところ寝起きはあまりいい方ではない。布団に戻りたくなるのを自制し、勢いをつけて起き上がった。
 歯を磨き、シャワーを浴びる。暖かな湯に打たれてようやく覚醒しきった心地になる。身軽な衣服に着替えると共に、銀の台座にサファイアの指輪を両手の親指にはめる。他の宝飾品は身につけないことにして、部屋を出た。
「おはようございます、索(さく)さま」
「おはよう」
 廊下で擦れ違う使用人たちに頭を下げられ、それに応えながら長い廊下を歩いていく。
 階下にある食堂は広く、十人掛けのテーブルには既に朝食が用意されている。いつもの席に座ると、すかさずコーヒーが差し出された。指がカップに触れ、コツリと硬い音が鳴る。
「索さま、本日は午後からCM撮影と雑誌のインタビューがございます。午前中のご予定はいかが致しましょうか」
 秘書に問いかけられ、俺は朝食を口にしながら唸る。今日も昨日と同じように練習と言いたかったが、そうはいかないようだ。コーヒーを一口飲み、渋々返答する。
「……午前中は練習をする」
「かしこまりました」
 頭を下げ、秘書が立ち去る。練習場の用意をするためだ。あまり時間が取れない以上、俺もぐずぐすしていたくはない。さっさと朝食を済ませ、ナプキンで口元を拭って立ち上がった。
 この屋敷には練習場が五つある。勿論それぞれの属性に合わせてのものだ。今回のように時間がない時、俺はいつも自分と同じ属性の練習場を選ぶ。
 第一練習場に着いた頃には、既に練習場の用意は整っていた。弓道の道場に似ていると言えばいいだろうか。ただし、的になっているものは岩や鉄など硬い素材のものばかりだ。
「よし。始めるか」
 ふ、と笑みがこぼれた。練習は好きだ。自分の能力が高まっていくのを実感できる。親指にした指輪にくちづけ、属性の力を発現させる。
 俺は準備されていた脱脂綿をひとつ手に取ると、それを勢い良く的へと弾いた。ギィン、という音と共に指先ほどの小さな綿が岩に突き刺さる。物質を堅固にするのが金属性の持つ特性だが、その硬度と密度をここまで上げて銃弾のような速度で放つことができるのは俺くらいなものだ。
 次の綿を指先でつまみ、より硬度を高めて放つ。先ほどより大きな音を上げ、綿が岩を貫通した。そのまま、続けざまに幾つもの綿を発射する。ぴったりと並べるように穴を開け続けると、やがて重たい音と共に岩が二つに割れた。
「こんなものか」
 呟いた俺の額には汗のひとつも滲んではいない。次のターゲットを鉄の的にして、俺は更に脱脂綿を手に取った。やがて秘書が俺を呼びに来る頃までには、鉄の的も二つに割れていた。

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