序章 |
――もう遅いなどと言わないでください。愛という尊い感情は永遠に失われたなどと言わないでください。 オースティン
(室内は広く、窓から射し込む陽光が落ち着いた調度品へと暖かく降り注いでいる。中央のデスクでは、壮年を少し過ぎた男性の医師が穏やかな表情を浮かべ、万年筆で何か書き物をしている) (ノックの音。扉の外から、若い女性が来客を告げる) ああ、もうこんな時間だったのだね。……どうぞ。 (扉が開き、男性が入室する。平均的な身長ではあるが、ほっそりとした体つきに、やや中性的な顔立ちをしている) こんにちは、雨宮(あめみや)さん。今日はいかがですか? そうですか、相変わらずなんですね。ええ、先日も見ましたよ、テレビで。素晴らしいご活躍です。 (しばし雑談) それで、そろそろ話してくれる気持ちになりましたか? 今日はほら、とてもいい天気です。こんな陽気の中だったら、悪夢について語ってもきっと大丈夫だと、そう思いませんか。 (沈黙) 大丈夫です、雨宮さん。わたしは、わたしだけは、あなたを裏切ることはありません。そして、それを一番よく知っているのもあなたです。そうでしょう。 (しばし沈黙。やがて男性が頷き、ゆっくりと語り始める) ……。ええ。好きなひとの手足を。その夢ばかり見るんですね。毎晩? (男性が頷く) あなたはその夢を見てどんな気持ちになるんでしょうか。 (男性による返答) 幸福。なるほど。ああ、いや、大丈夫、大丈夫ですよ。全て夢のなかの出来事ですしね。それはともかく、そんなに頻繁に四肢切断の夢ばかり見るんですね。そしてあなたはそれが幸せなのだとおっしゃる。四肢を切断することがどうしてそんなに好きなんですか? (男性による返答) そうですか、無力なところがいいんですね。 (医師が頷くのを、男性がじっと凝視している) 物理的に拘束するのではいけないんでしょうか。いえ、純粋な興味ですよ。椅子かなにかに縛り付けるのでは違うのですか? (返答) ああ、精神的に。つまり、物理的に無力にさせることで、その心をも折ってしまいたいということなんですね。 では、少し視点を変えましょう。あなたは相手が苦痛を味わっているところを見たいのでしょうか? (男性が顔を歪め、首を振る) 残虐趣味ではないんですね。そうでした、スプラッタ映画やスナッフビデオもお好きではないとおっしゃっていましたね。では、弱いものが肉体的な苦痛を味わわされているのはお好きではないと。性的にも興奮はしないんですね。 それでは、あなたは夢のなかで好きなひとの腕や脚を切断するとき、いったいどういう気持ちになるんですか。幸福とおっしゃいましたが、具体的には? なぜあなたは幸福な気持ちになれるのでしょうか。 (再び、沈黙。しばらくしてから男性が俯いて返答) ああ、征服欲と支配欲が満たされて安らぐということですね。そうしたら、やっぱり縛るのではいけないのですか? (男性による返答。依然、男性は俯いている) なるほど。自分の側の心の不安を全くゼロにしたい、それは恐らく恐怖症なのでしょうね。肉体以上に意志能力そのものを去勢したい、羽根を千切り牙を折って愛玩動物にしたいという気持ちの表れなのではないかと思います。そうなるともはや束縛ではない、モノとして所有したいということではないでしょうか。 ……ところで雨宮さん、その相手は人間ですか? (男性が顔を上げる。驚きの表情) あなたが夜毎夢のなかで四肢を切断する、その相手は人間なんですか? あなたは相手を、人間だと思っていますか? (沈黙。男性が席を立つ) ……さようなら、雨宮さん。よかったら、また来てください。 (医師の言葉が終わる前にドアが閉じられる。医師は溜め息を吐く。手元の紙に何行か書きつけ、万年筆を置く。立ち上がり、窓の外を眺める。陽光は暖かく、広々とした室内を照らし続ける) |
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